わたしとYCAM
通りがかりに出会って
2003年秋、深夜。台所の窓を開けたら、いくすじもの光が空に交錯していた。
それが中央公園に置かれたサーチライトから伸びる光で、だれかが送ったメッセージに応じて明滅している―ということはなにかで読んでいたから、「おおー」と思った。光は意味ありげに暗い空を照らし動いている。でも、そのすごそうなものを、家の中からパジャマ姿で眺めるのって、どこか変な感じだ。くらくらっとした。その作品《アモーダル・サスペンション(1)》には、おおーと思ったが、その後YCAMに熱心に足を運ぶようにはならなかった。だいたい、私は市内在住なのでいつでも行ける。そう思うからかえって行かない。気がついたらイベントが終わっていたということがしょっちゅうだった。YCAMの展示を見なくたって困らないし。ただ、イベントや展示を追っていれば、なにかが見えてくるのかな、という気はずっとしていた。行く理由があれば、とも思った。それでYCAMのサポートスタッフに登録した。サポートスタッフになり展示のナビゲーターをして、印象に残っているのは来場者と作品との出会いの風景だ。ホワイエの床を西陣織の絨毯で覆い、それを公園に見立てた《プロミス・パーク(2)》のインスタレーション。たまたま通りかかった人とその「公園」に座って、長いこと話した。アーティストと同じ韓国出身の友人がいたそうで、思い出が言葉になっていった。天井から床に張られた何本ものワイヤーに、いくつものデバイスが付き、サイン波を鳴らしていた作品(3)。サイン波が干渉し合い、場所によって響く音が違う。隣にいる人と自分とは、違う音を聴いている、それを感じたいという人と、ワイヤーの間をゆっくりと歩いてみた。歩く間その人は、親しい人と自分との思いの距離を考えていたという。通りがかりに見た(聴いた)作品に、それぞれの人のなにかがコツンと当たる。ナビゲーターをしていると、ときどきそんな場面に出会う。《アモーダル・サスペンション》を見たとき、光の後にメッセージを発する「人」がいると感じた。そして自分の日常が、世界のだれか、なにかつながったような気がした。それでくらくらした。見ること、食べること、人と過ごすこと。山口で暮らす自分の日常は平凡なものだが、丹念に辿れば、世界や歴史、アートといわれるものにつながっているのかもしれない。そんなことを感じさせてくれるYCAMが、中央公園にある。おとなでも子どもでも、図書館帰りでも、芝生で遊んだ後にでも来ていい。それがうれしい。
- ラファエル・ロサノ=ヘメル『アモーダル・サスペンション―飛びかう光のメッセージ』(2003年)
- ムン・キョンウォン+YCAM『プロミスパーク──未来のパターンへのイマジネーション』(2015年)
- サイン・ウェーブ・オーケストラ『The SINE WAVE ORCHESTRA stay』(2017年)