わたしとYCAM
旧い友だちと話すように
石井通人に「でも最初の2年くらいはそんなにYCAMに行ってなかったじゃろ?」と言われて、「確かに」と思った。現在、プログラマーとして活躍する彼とは高校時代にインターネットで知り合い、偶然山口大学で同級生になり、随分遊んだり喧嘩したりした。 2003年、僕らが大学1年生のときにYCAMはオープンした。これに先駆けて活動していた「山口アートマネジメント隊」(1)での音楽家・野村誠さんのプロジェクトに、入学から間もない僕と石井は参加した。野村さんの「しょうぎ作曲」(2)で市民のみなさんと作った曲はとても奇妙なもので、オーケストラに合わせて餅をつき、僕らはそれを観客に配った。 それがきっかけで僕がYCAMに通うようになったかというと、そう単純でもなかった。YCAMスタッフの会田大也さんが大学に施設の紹介にいらしたことや、山口大学の堀家敬嗣先生がダムタイプの公演『Voyage』(2004年)に連れていってくれてなぜか自慢気だったことなど、些細なことばかりが思い出される。YCAMへのいろんな声も聞いた。「敷居が高い」「わけわからん」など。無知な学生だった自分も、多少そう感じていたかもしれない。 僕がボンヤリしている間にも、石井はせっせとYCAMに通っていた。YCAMのスタッフの大脇理智さんが「駅通りにスタジオ(3)を作るから手伝わないか」と声をかけてくれたのも、石井が僕と珍妙な演劇を作っていることを彼に伝えてくれたからだ。大脇さんは仕事の合間に僕よりもっと珍妙なダンスを作っていて、とても変な人だと思った。 その後、サポートスタッフとして定期的に手伝いに行くようになり、さまざまな作品に出会った。自分の演劇の活動も徐々に充実し、YCAMのプロジェクトからもさまざまなことが読み取れるようになった。専門的な経験も随分させてもらった。 でも、今思い出したいのは、そういう「わかるようになった」ことではない気がする。 子どもの遊び場として大人気になった『コロガルパビリオン』(2013年)で、いつもスタッフをひとりじめしてしまう子がいた。多少心配の声が上がったり、断片的な事情を見聞きもしたが、結局その子に何かしらの解決を手渡すことはできなかった。できるはずもなかったし、ここはそれをする場でもなかった。ただ僕たちは一定期間ひらかれた場で、一緒に遊んで別れた。 メディアを通して知ることや、地域で見聞きすること。学問的に、あるいは娯楽としてふれるもの。僕たちはなんとなく接し、徐々に慣れていく。そのほとんどは「わかる」というようなハッキリしたかたちではなく、ボンヤリと身体に馴染み、考え方に染み込んでいく。 旧い友だちと話していると、なんでこいつと仲良くなったんだっけ、とふと疑問に思うことがある。それについて今の自分が考えても、つい都合のよい物語を作ってしまうだけだ。山口に来たら、たまたまYCAMがそばにあった。まずはただそれだけだった。そのことについて何も分からなくても、一緒に過ごしたあのボンヤリした時間が、僕の言葉を育ててくれていた。そして数年経った僕を、なぜかアーティストにしてくれたのだと思う。
1 YCAMのプレイベント事業「アーティストがまちにやってくる」にて結成された公募によ る市民グループ。アーティストと話し合いながら、企画・予算管理・交渉・実施までを行 う。参加アーティストは4名(藤浩志、きむらとしろうじんじん、小山田徹、野村誠) で、それぞれのプロジェクトチームが結成された。2 音楽家・野村誠が考案した五線譜を使わない作曲方法。3 山口市駅通りの「スタジオイマイチ」のこと。2007年にオープンした。